復活! 【湘南改造家日記】
                  いったい彼らは今何をやっているのか!?
                      会員の皆様向けに、改造家の近況を代表自ら即時UPしてます。
                      湘南改造家日記の復活です。適宜更新予定⇒



世代間をつなぐ鍵。  ・・・2004.12.9
    
 介護保険の負担年齢の拡大は見送りが決まりそうだが、それは典型的な選挙対策の先送りに過ぎない。さまざまな形で、とんでもない額のツケが我々や我々の子の世代に回されている。(国債には60年償還ルールなるものがあり、来年発行される借金はどんな年限のものであれ、60年後に全額返済する形で借り換え続けるらしい。来年の借金の返済はうちの子が還暦になるまで終わらないのだ。)     
 まあ、我々が選んだ人間が決めているのだから、我々に責任がないとはと言えないが。     
 ただ、高齢世代には申し訳ないが、現実問題としてこれから予想される借金の相続に、我々の世代は耐えられない。     
 では、どうやって自分たちの生活を守るか。     
      
 個人の相続では、負債の相続を放棄することもできるのだが、徴税というかたちで負担を求められる、国家の借金の“相続”放棄は不可能。     
 それに対する唯一の合法的な“相続放棄”の方法としては、「できるだけ少ない収入で生活すること」が考えられる。どんな税制でも、さすがに無い袖は振らせられないだろう。
 そのためには今まで忘れられてきた、生活の知恵を身につけなくてはならないが、それを知っているのは高齢者の世代だ。そのための知識とサービスの交換を生む仕組みとして、われわれがやっている会員間のお手伝いのような試みが機能すれば、世代間の共存が可能なのではないか、ということを考えている。     
 現在はお手伝い料というかたちで円貨を仲立ちにしているが、それぞれの会員間で了解があれば、それを“肩たたき券”のような個人の経験や技量という“信用”をベースにしたもので代用することもできる。     
 その中には、WATシステムという、だれでもすぐ使える開放的な設計のものもあり、湘南改造家でも、信頼関係が生まれた会員間には使えるように、そろそろ準備していこうと思っている。     
 高齢の会員には、現金がなくてもサービスが受けられるというメリット、現役世代の会員には、生活のための知識や経験を得るチャンス。金銭という面からみると対立するしかない、両方の世代を繋げるための鍵になりうる可能性をこの仕組みは秘めている。     
    
 ただ、他人に何かを与えられない人間にはこの仕組みも届かない。この仕組みを必要としない今のうちに、 他人に求められるレベルでの生活に密着した技術を磨くことがいまの自分の課題ではある。




障害は、障害でない  ・・・2003.8.28

 前回に引き続き「障害」について。タイトルの言葉は、福祉大国デンマークで使われているものだと聞いた記憶があります。いったい何のことかよくわからないこの言葉から、今回は「障害」とは何かを掘り下げていこうと思います。     
 WHO(世界保健機構)が1980年に定めた分類によると、障害は大きく三種類に分けて定義されます。     
  1、 機能障害(impairment)最初に発生した、物理的な障害     
  2、 能力障害(disability)1の障害によって顕在化した障害     
  3、 社会的不利(handicap)1,2の障害によって、社会生活上発生する様々な困難     
    
 脳血管障害(脳梗塞)を例に説明すると、     
 1は、脳内血管が詰まっている状態。     
 2は、血栓ができたところに対応する、からだの一部の麻痺。     
 3は、麻痺のために駅の階段が上がれず、通勤が困難になり仕事に就けないこと。     
 となるでしょうか。それに対してどんな方法を採るかというと、     
 1は、手術や投薬などの医療的な対応によって対処できることがあります。ただし完治するかはケースバイケース、手術の失敗や薬の副作用で体調を崩すなどのリスクもあります。     
 2は、リハビリなどの理学的療法でよくなることがあります。それにより症状が悪化する危険は少ないですが、効果がでるまでは長い時間と本人の大変な頑張りが必要です。     
 3は、エレベーターなどの移動手段があれば通勤が可能です。ただし経路のすべての箇所について改良が必要です。自分の負担はほとんどありません。     
 たとえ1や2の障害を持っていても、3の部分で不利になることがなければ自立して暮らしていくことができます。タイトルの言葉はけっして精神論的なものではなく、障害を負っていてもつかえる設備が充実し、そういう人を自然に受け入れられる社会があるなら、身体的な障害は社会生活をいとなむうえでは困ることではなく、ひとつの個性として受け入れられるようになる、ということでしょうか。そして、少なくとも高齢者としての障害を抱えることは、僕たちにとって決して他人事ではないのです。





眼鏡のように当たり前に。  ・・・2003.7.16

 今の日本の社会では「障害」が「健常」の反意語ととらえている方がまだ多いのではないかと思います。「病気」とかと同じニュアンスですね。でも、いろいろ最近勉強していくなかで、僕は最近「障害とは誰にでもある普遍的な特徴なのではないか、重い軽いはあるにしても」という考え方に傾いてきました。考えてみれば、誰でもちょっとした身体の不具合を抱えているはずです。     
 たとえば“近視”。眼鏡やコンタクトレンズという生活補助具を使わなければ、車に乗るなどの生活に欠かせない活動がとても困難になるはずです。     
 でも、眼鏡などが当たり前にあるおかげで、そのことが「障害」であると意識せずにほとんどの人が暮らせているのではないでしょうか。であれば、他のいわゆる「障害」についても、ちょっとした道具などがあれば同じことが言えるようになるのでは?     
 つまり、わたしたちが身体の不都合を「障害」と捉える境目は、身体の状態ではなく、(道具などを使って)普通の生活が送れるかどうかなのだと思います。     
 また、最近いろいろな方のお話を聞く機会が多いのですが、その中でよく言われるのが、「高齢者とは障害のデパート、総合障害者である」ということです。     
 そういう観点に立つと、住宅改修というのはいわば“高齢者の住み家に老眼鏡をかけること”といえないでしょうか。手すりの取り付けや段差の解消によって、自分でトイレに行けたり、お風呂に入ったり、外に散歩に出かけたりできるようになることは、ほんとは眼鏡をかけるように簡単に行えるようになるべきことなのではないか。そんな気持ちを持って、そのための適切な処方のできる知識や経験を磨きながら、この仕事に関わっていきたいと思います。





なぜ、「湘南改造家」なのか?  ・・・2003.2.13

 何で湘南改造家という名前にしたかについて。
 この地域に根ざして、住宅改修などで汗をかいていこうという気持ちを、老若男女だれでもわかるようにとまっすぐにあらわしました。
 じつは改造・家ではなくて、改・造家という意味もあります。
 明治時代、アーキテクチャーという単語が日本に入ってきたときに、はじめて当てられた言葉が ”造家”という言葉です。のちに建築と言い換えられましたが・・・。
 壊しては建て、壊しては建てを相変わらず続けている建築業界に、こうゆう仕事のしかたもあるのでは?という提案の気持ちをこめて、こう名付けました。